和光学園は私の人生そのものです! ~和光学園 退職にあたって~

 

今年も6年生に卒業証書を手渡し、たくましく成長した姿を見送ることができました。ひな壇に並んだ卒業生を正面から見つめながら、本当に幸せな日々を過ごさせていただいたとしみじみ感じていました。


私が和光学園に赴任したのは1981年4月、今から42年前です。教員になりたい、という強い意志があったわけではなかったのですが、女性が自立して生活していくためにどのような職業を選ぶべきかと考えた末に教員を目指したというのが正直なところでした。

私は奈良県の大宇陀、日本最古の能舞台がある阿紀神社の近くで生まれ、父親がのれん分けしてもらった印刷屋を大阪で開くことになり物心ついたころに大阪へ。その後、高校卒業まで大阪城公園の目と鼻の先、森ノ宮というところで育ちました。母方の祖父母がいた奈良県の榛原は自然豊かな山里で、夏休みも冬休みも春休みも、いとこたちと野山を駆けまわって遊んだことが子どもの頃の一番の思い出です。

大学入学とともに上京し、大学での学びの中で、子どものこと、女性の問題などを考えるようになりました。一時はジャーナリストになりたいと考えていたのですが、当時、新聞社はもちろん出版社も、ことごとく女子学生については自宅から通うことが応募の条件となっていました。女性を一社員としてまともに扱おうとしていないことに失望し、かろうじて男女平等の扱いがあるのは教員だったのが教職を目指した一番の理由でした。子どもの頃、母方の祖父が小学校の校長をしていたのも影響していたのかもしれません。大学に募集が来ていた和光学園のことを、恥ずかしながらあまりよく知らず、友人から丸木政臣先生のことを聞いたのが応募するきっかけとなりました。(このあたりのことは夜に語る会で詳しくお話しさせていただきました)小学校に応募したら、今回は理科専科の募集なので幼稚園でどうですか、と連絡があり、和光幼稚園教員に採用していただきました。

幼稚園の3年間は、社会人としても教員としても一から学ぶことばかりで、失敗ばかり。思い描いていた「自立」とはこんなに大変なものなのかと思い知らされました。それまで机上で学んでいた子どものこと、保育、教育のことを手探りながら実践し、試行錯誤しながら学び続ける日々でした。当時も幼稚園と小学校は同じキャンパスにありましたが、子どもたちの交流も教員たちの合同研究もなく、内部進学する子どもたちは今よりももっと少なかったように記憶しています。

そのころの和光学園は丸木先生が幼稚園と鶴川幼稚園園長、小学校(まだ鶴小はありませんでした)、中学校、高校の校長を兼任していました。その上教育学者としてもメディアに引っ張りだこでありましたが、幼稚園にお孫さんが入園したこともあり(私が新任で担任しました)よく顔を出してくれました。

幼稚園に勤務して2年目、丸木先生が教職員の沖縄ツアーを組んでくれました。先頃亡くなられた大江健三郎さんの『沖縄ノート』をテキストに学習会も何度か行われました。私が沖縄に初めて行ったのはこの時で、復帰後10年の沖縄は、まだ生々しい戦争の傷跡、米軍による占領の名残がそこかしこにありました。平和の礎が作られる前でしたので、遺骨や砲弾のかけらだらけの南部戦跡を、丸木先生が言葉をかみしめるように語りながら案内してくださいました。今は絶景スポットとして知られているギーザバンタは、米軍に追い詰められた多くの住民がここから身を投げ、米兵は「スーサイドクリフ(自決の崖)」と呼んでいたところで、上から覗き込んだ時の恐怖は忘れられません。

1984年4月、和光小学校に配置転換になり、3年生を担任しました。和光小学校は2クラスから3クラスになって間もないころ、教職員も今の1.5倍いました。グランドは小学校18クラスと幼稚園が使用するので、体育を「半面」で行う時間が組まれていました。そのころは10月に運動会が行われ、2つか3つの学年で取り組まれていた民舞は運動会の中で発表していました。

教育課程改訂で3年生以上に「総合学習」、低学年は「生活べんきょう」を位置づけ、今のように三領域で教育づくりを進めることになったのは1986年だったと記憶しています。4年生は「環八」をテーマとし、子どもたちは環八まで出かけて行って騒音や大気汚染のことを調べたり、近隣住民の方にインタビューしたり、からだをくぐって学ぶことができることをあれこれとやってみました。その後、4年生のテーマは今の「多摩川」になります。

その頃、運動会は6月に行うことにし、新たに「いちょうまつり」を位置づけました。はじめの頃は2日間にわたって行われ、3年生以上は総合学習の研究発表があり、さながら高校の文化祭のようでした。各学年でとり組み始められた民舞の発表もあり、フィナーレが行われる頃にはとっぷりと日が暮れ、グランドに張り巡らされた提灯に灯がともり、2年生が制作していたおみこしをわっしょいわっしょいと担ぎながら練り歩きました。いちょうまつりのオープニングでは低学年の子どもたちが北原白秋の「お祭り」を群読していましたが、<おいらの神輿だ、死んでも離すな><提灯点けろ、ご神灯点けろ>という文字通りのお祭りだったのです。

1995年4月、開校4年目の鶴小に異動となりました。和光小で最後に担任したのは2年生。今は体育館になっているところにあった低学年棟3階の教室で終業式後の学級活動を計画をしていたのに、突然教員たちが呼び出され、すぐに集団下校となりました。地下鉄サリン事件でした。新宿方面に向かう子どもたちには教員が付き添い、自宅まで送り届けるという体制を取って慌ただしく和光小学校最後の日が過ぎていきました。その時担任した子どもたちはもう36歳。仕事に子育てに忙しくしているとのお便りを下さる方もいます。

鶴小では19年間お世話になりました。環境も人も違えば学校そのものの持つ雰囲気も違うもので、雑木林に囲まれた鶴小では、開校から間もないこともあり、何とも牧歌的な雰囲気の中、子どもたちと羊を飼ったり、8千頭のカイコを飼ったり、世田谷では味わえない面白さもありました。

2014年4月、和光小学校・和光幼稚園校園長として再び世田谷キャンパスに戻ってきました。19年ぶりのキャンパスは新校舎になり、子どもの森、屋上プールなど当時とはすっかり変わっていましたが、元気いっぱいの子どもたちと、その子どもたちと一緒に教育実践をつくる意欲にあふれた教員たちの姿は変わることなく、“和光の教育”が満ちあふれていました。文科省の学習指導要領改訂に対峙する和光小学校の教育を紹介したい、と映像制作会社テムジンさんがドキュメンタリー映画「あこがれの空の下」を制作してくださったのは2018年度のことでした。上映の時期とコロナが重なりましたが、今も各地で自主上映が続いているのはありがたいことです。もう一つ、刑法性犯罪の改正により文科省が「生命(いのち)の安全教育」を行うことにしたことと関わって、幼児、小学生への性教育に注目が集まりました。いくつかのメディアで和光小学校、和光幼稚園の性教育を紹介する機会に恵まれたことも、和光の教育を多くの方に知っていただくきっかけになったのではないかと思っています。

校園長としてどれだけのことができたのか、と9年が過ぎて反省することもあります。ほんとうに多くのみなさまに支えていただいた9年間でした。 

鶴小に在籍している当時、「“人間と性”教育研究協議会(性教協)」との出会いがありました。性教協を立ち上げたメンバーのお一人、和光高校の保健体育科教員だった村瀬幸浩先生に声をかけていただき、台湾の高雄で開催されたアジア性教育学会で実践報告をさせていただきました。台湾科学技術大学で行われた学会は、高雄市が全面的にバックアップしていることを感じさせる大がかりなもので、4年後に日本の立教大学で行われたときの、行政は一切かかわらない我が国との違いを見せつけられた感じがしたものです。

性教協の幹事として活動し、全国の教員、助産師、医師、看護師、児童相談所職員、児童養護施設職員などなど、子どもに関わる幅広い分野の方々といっしょに研究活動を進めていくのはとても刺激的でした。何よりも、わが国ではまだまだ位置づいていない包括的性教育を広げ、深めていくことは、私自身の子どもの捉え方を豊かにしてくれたと感じています。

鶴小で教育課程の中に総合学習の領域別テーマとして「こころとからだの学習プラン」ができたのは2007年です。3年間学校全体が性教育を研究テーマとし、カリキュラム作りを進めた結果でした。これには親和会サークルを立ち上げた方たちをはじめ、多くの保護者の方々の後押しがあったことも大きかったと感じています。

和光小学校では2017年度、「からだ・こころ・いのちの学習プラン」として全学年での取り組みが始まりました。教育懇話会では毎年のように性教育に関わる分科会が設けられ、性教育は大人にとっても豊かな人生を送るうえで欠かせない学びであることを感じて下さる保護者のみなさまがたくさんいらっしゃることに勇気をいただき続けています。そして今年度、満を持して「性と生を考える同好会」が立ち上がり、交流の輪を広げつつあること、とてもうれしく思っています。


私は小学校へ異動した年に和光高校の教員である今のパートナーと結婚し、3人の子どもを授かりました。1人目の時はまだ育児休業制度ができたばかり、経験の浅い自分が育休を取得することは周りからも許されない空気に満ちていて、生後2か月で復帰しました。まだ首が座らない長男を無認可の保育所に預けに行った時の切なさは今でも思い出すと胸が痛くなります。しかし、その後の保育園生活は新米の親である私たちを成長させてくれました。長男は和光小学校から和光高校まで、鶴小三期生の長女、次男ともに鶴小から和光高校まで進学し、一家そろって和光学園でお世話になりました。

振り返ってみれば様々なことが思い出されます。そのどれもが今の私の生き方につながる貴重なできごとであり、子どもたち、保護者のみなさま、職場の同僚など和光の仲間と共に過ごす日々はなにものにも代えがたい宝物のような時間でした。これまでに出会った多くのみなさまにこころより感謝申し上げます。

そして、和光学園は私の人生そのものでした! ありがとうございました。


                  2023年3月21日

                                                     北山ひと美


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