「ことばを育てる」その2 ~2022年度和光学園報特別号 座談会より~

 

この秋発行の和光学園報特別号では、「ことばを育てる」と題して4月から理事長に就任された小森陽一先生と和光鶴川小学校の橋本先生、和光高校の畠中先生の座談会を企画しました。
7月末に行った座談会は、鶴小と高校の授業にとどまらない“ことば”と向き合う実践、さらには小学校の美術教育や幼稚園のげき作りにも拡がり、あっという間に2時間あまりの時間が過ぎていきました。
学園報は紙幅の関係で前半、それも大きく割愛した内容しか掲載することができませんでしたので、このブログで紹介させて頂きます。

今回は、和光高校国語科の畠中先生による、2020年度の実践です。




【和光学園報 座談会 ことばを育てる】2022年7月26日
◎出席者:小森陽一理事長・ 畠中由美子先生(高校)・橋本紗弥先生(鶴小)
◎司会者:北山ひと美(和光小幼校園長)


休校中に書いた日記を読みあう
司会(北山)それでは、ぐっと年齢が上がりますが、畠中先生の高校の実践をお願いします。

畠中先生)はい。同じ1年生でも高校1年生のコロナ休校期間の課題のお話をしたいと思います。色々な授業や経験を経て、高校1年生に入ってきますが、それまでにくぐってきた国語の経験が本当に様々です。
和光で育ち、「お互いのことばを大事にしながら、育てていくのが国語だよ」っていうような授業の経験を積んできている子もいれば、高校は6割、和光ではないところから進学してきますので、例えば、漢字がとにかくひたすら苦手で、「自分は漢字が出来ないから国語が出来ないんだ」というように思っている人や、「いつも正解ってされてるものに納得がいかなくて国語が嫌いだ」って思っている人などいろいろな人が入ってきます。
私は、1年生には教室の中で、お互いのことばに耳を澄まし、それに応答していくという集団に育ってほしいし、それが高校の授業だということを分かってほしいと思っているので、何で授業を開くかは、緊張して、結構考えて毎年変えているところです。
2年前は、その大事な時期が休校期間で、課題を郵送するというようなことになりました。そうであっても、世の中では、授業の遅れや学習の遅れを起こさないようにというようなことを結構煽るような感じもありました。
同じ学年を持つ先生や国語科5人の教員で考え、休校で会えないからと言って、ドリルみたいなことを送るのは、和光の国語科としては、ちょっと違ってしまうメッセージになる、いつ休校が明けるか分からないけれど、そこで出会うときに、記号で選ぶとか、漢字で〇×つけられるのが国語だよね、とは受け取ってほしくないなぁ、顔を見て過ごすことができないけれども、そういう中でどういう課題を出すのがいいかなと考えました。
教科書の中から自分が感じたことばを拾ってきて、それにコメントを付けてもらう、あるいは、毎日家にいる生活の中で、メディアにはすごく刺激的なコロナのニュースが日々流れていて、どんなことを思っているかということを書き綴るとしました。
<日本が真珠湾攻撃をした日に、太宰治が『十二月八日』という小説を書いたり、坂口安吾が『真珠』を書いたりしましたが、あなたたちもそういう歴史的瞬間にいるんですよ>というようなことを謳って、日記を書いてもらおうということに。ただ、どんな人たちがどんな生活を送っているかということはわからないので、そんなにハードルを高くせず書いてもらうとしました。
やっと6月に休校期間が明けたとき、ノートに綴ってもらったものを見ました。2ヶ月で4つ課題を出したうちの、日記はその1つでした。その課題のどれを使って授業開きをしていこうか考えたとき、自分の生活やニュースをどういう風に感じたかや、日常の公園で見た子どもの姿だったり、あるいは自分の家族の心配だったり、日記が思いの外すごく濃かったのです。
これは私が読んで終わるっていうのはとても勿体無いし、また学校がいつ閉じてしまうかわからない、でも、せっかく学校が開いたんだから、対面で出来ることって言ったら、やっぱり高校生に話してもらいたいし、この日記もお互いに読み合ってもらいたいと思いました。
ただ、普段だったら、「読み合うことを前提に書いてくださいね」と趣旨は説明して入るのですが、休校期間中の課題で、<一義的には自分のために、二義的には担当者が読みますよ>という条件で出したものだったので、日記を他人に読まれていいかどうかというところは、ちょっと緊張しました。それぞれのクラスの生徒に、「あなたたちの休校期間中の生活が見えるようなことだけれども、お互いが、同じ時代で同じ事柄を経験している中で、出してることばを読み合ってお互いに知り合ってほしいし、同じ事柄についても、考えていることは違うので、読みあいたい」と伝え、この日記を印刷して、皆で読み合っていいかどうかを聞きました。そうしたら、意外とすんなり「いいですよ」ってうなずいてくれました。
お互いのことを知りたい気持ちもあったと思うんですよね。自分のを読まれたいということよりも、お互いに読み合いたいということもあったのかなと思います。普段私も、授業の中で、書くものを打ち直して出すときと、直筆を出すときがあるのですが、日記は、この字で、この書き方で、絵なんかを入れてくれる人もいて、これは私も直筆で早く読みたいと思っていたし、クラスの人にも、これはもう、生原稿で印刷して読んでもらいたいと思ったので、そのままコピーして配っていきました。
1回の授業で、B4のプリントで裏表2枚分ぐらいです。人によっては、4月に書いた日記を、6月の自分が語るまで、そのときと違っていることもあるでしょうし、自分が振り返って4月の生活を語るっていうようなところもある。その日記を使って、休校期間中の自分について話してくださいというような進め方をして、お話をしてもらいました。
とにかく喋ってもらうことがテーマだったので、どんどんどんどん横の人に、それについて感想とか、自分はその生活どうだったか。例えば、「休校期間中に、お昼ご飯をおじいちゃんの家に作りに行ってました」と話してくれる人がいたときに、その感想を聞いたりして。「自分はいつもお母さんに作ってもらってて、そんな中で料理するなんて発想は無かったからすごいなぁ」とか、そんな感想を、次々話してもらいました。
お互いに、思いの外、一人が語ったことに対して、返ってくる言葉が柔らかくて。「感心したなぁ」とか、あるいは、休校開けでまだ知り合って間もないところなので、そんなに質問をバシバシしていくっていうことではなく、例えば、「ご兄弟とはお昼一緒に食べなかったの?」というような質問を私が投げかけたりしましたが、みんなすごく集中してお互い聞いてくれる感じがありました。
日記の中で語られていることを、お互いに意見を交わすとしたら、どんなことが論点になるかなと考え、例えば、生の言葉で、「『有名でお洒落なパンケーキ屋さんがオープンしたので、それを食べに行きました』みたいなのをインスタに上げてる人がいて、この時期にそんなパンケーキ食べに行くなんて頭がおかしいと思った」と書いている人がいたのを、多分見方が分かれるだろうなと思い、それについてどう思うかを、クラスの人に聞きました。
そうすると、「インスタにそういうのを上げて、確かに、こんなに皆が『自粛しなきゃいけないよ』とか『医療がひっ迫』とか言ってるのに、そんなことで自分の楽しみのために並んでる人は許せないと思いました」という人もいれば、「他人がそういうのを上げていて、そういうふうに思うんだ~。全然気にしてなかった」というような人もいたり、「自分はあんまり思わないけど、自分がインスタに上げるときは、『遊んでる』って思われないように、自分は上げる立場で気を付けてます」とか言ったり。でも、ある人は、「パン屋さんが潰れちゃったら嫌だって思って、買い支える」みたいなことで、「自分の楽しみのためにとかじゃないけど、皆が行かなくなっちゃったらお店が潰れちゃうから、そんなふうにして買ってるパン屋さんがある」っていう意見があり、「そんな視点もあるのか」という気づきもありました。
「立場が変わるとモノの見方が変わったりする。同じ社会にいても、あるね」と。子どもが、公園でマスクして遊んでたりするのも、「『親、側にいるのに何してるの?』って本当正直イライラする」っていう人もいれば、「あんな小さい子どもがマスクしなきゃいけないなんて可哀想、心配」って思う人もいて。それは素直な、今だから言える感情というか、どういう人に見られるかじゃなく、素直な感情でそういうやり取りがありました。
日記の中では、ナーバスな言葉になり、「自分が感染させてしまうかもしれない」というリスクのところを語るとき、「『自分はいつでも殺人鬼になりかねない』っていうふうに思った」ということを鋭く書いてきます。その後の授業で結構内省的だとわかってくるのですが、そういうのはわかる人と、この時点では「殺人鬼?」っていう、高校生でもよく分からない人がいたりします。でも、まだ関係性も無いので、そういうところは深掘りするのはやめようと思い、紹介して終わって、そこはお話をするという俎上には載せないでというように扱い方を考えながらやりました。
6クラスそれぞれで話題になることはだいぶ違いましたが、一生懸命やってくれました。

司会(北山)読むのは、ハーフクラスの全体、20人の前で読んで、聞いてた人たちが色々感想を言い合うということですか?

畠中先生)はい。そういうことです。

小森理事長)本人が読むの?

畠中先生)はい。文字は皆の手元にあるので、これを使って自分の生活を語るということで、日記をそのまま読んだ人もいれば、自分の生活を語ってくれた人もいました。

司会(北山)休校期間中に日記を書き、明けたところで皆に聞いてもらう。先ほど畠中先生がおっしゃっていたように、高校生で初めて会う人たちで、しかも自分の生活を書いたものを、読み合うことを前提ではなく書いたものを「いいよ」って言ったのは、私もちょっとびっくりしました。「えっ?そうだとしたら初めに言っといてよ」っていうのはあったと思いますが、「いいよ」っていうことは、どのクラスでもそうだったんですか?

畠中先生)そうですね。もう少し何か聞いてくる子とか、よくあるのは「名前伏せられませんか?」とかあるんじゃないかしらと思ったんですが、でも名前を伏せてはこれは意味が無いので、もし「伏せてください」っていう人がいたら、それは除こうと思っていたのですがそれも無かったんですね。

司会(北山)じゃあ、もうほぼ皆、自分の日記を紹介していくということが、休校が明けたところで行われたということなんですね。

畠中先生)はい。

橋本先生)高校1年生がコロナの中で悶々とする生活が続き、ある意味、出会ってないけど共通の体験をしていて、しかも、一つの行動やニュースでも、何が正解か不正解かもわからないような日々だったと思うから、だからこそ、共感的に「わかるなぁ、その思い」っていう人もいれば、「違う見方もあるんだな」みたいな発見もあって、感想も言いやすかったり、自分の思いが書きやすいっていうのもあったのかなと思いました。だからこそ、初めて会う人だけど、何か意見をして、別にそれが喧嘩になるとかじゃなく、語り合いやすかったのかなって思いました。

畠中先生)あるクラスでは「お父さんが家事するようになって良かったです」という話をすると、「本当?」とか(笑)「そうだね、そうだね」とか言い、そういう生活がすごく出てきました。でも、そういう生活実感みたいなことって大事にしていきたいところです。

小森理事長)コロナ渦で共通の体験をし、しかも、始まって以来出会えてないわけだから、自ら直筆で書いた手書きの日記が、思いを綴った文章が、そのままコピーされてね、クラスで共有されるっていう、まずそういうことを国語の授業として目論んだっていうことが決定的に重要ですよね。
こういうとき、人間ってものすごく訳の分からない不安な状況に落とされてるわけだから、それは、日常的な人間関係の中で言葉を交わしたりするだけでは認識できないので、そこを日記にそれぞれが綴り、今日体験したことを言語化しなきゃいけない。多分それは、今までの小中学校の夏休みの絵日記とかそういうことではない。すごくざわざわする、何がどうなるか分からない状況の中で、しかも今までの日常が、それこそお父さんが料理を作ったりとかも、日常が崩れて「えーっ?」というようなことになったり。そういう驚きを、課題を与えたことによって生徒たちが綴って、この瞬間に、そういう意味では国語のこの課題に救われたと思うんですよ。つまり『自己対象化』。言語化することによって、「あぁー、どうしよう」みたいな、下手すればパニックになるところを、「親父、料理作ってんじゃん」みたいな(笑)、引いた位置による精神的な安定みたいなね。高校生たちの日記の文章、いやなかなか皆面白いですよね。目の付け所というか、「高校生の日常生活、そこ注目するか?」みたいな。でもそれは、文字通りコロナ禍で非日常になっちゃったからね、日常が。だから、当たり前だと思ってた日常が非日常化したところで、「ことばにしてみて」っていう課題が出ただけに、ちゃんと自分が持ってることばで、コロナ禍の異常事態に向かい合うことが出来た」という実感が共有されてたんじゃないかと。それで、「読んでもいいよ」っていうことに。普通イヤですよね。とりわけ、高校ぐらいは「ちょっと先生、秘密に出したんだよ」って言いたくなるところ。でも、「皆どうだったのかな?」。それもやっぱり自分が対象化される実践だったから、「これは共有してもいいのかも」って。
体験をことばで表現するっていうことを教えるのが国語科の一つの役割なんだけど、そのことが持つこの非常事態の中における、ある種の個別の一人ひとりの生徒たちの魂の救いにもなるし、クラスで共有することによって、バラバラだった今まで会ってなかったクラスの社会的な集団性みたいなものも、相互のことばによって形成することにもなった。そのことでお互いに分かり合えてるわけですよね。「この子、こうなんだ」、「そこ、そう言うんだ」みたいな。だから、実際の日記表現をバラしちゃったっていうあたりが、中学校までは無かった、和光高校に入学したから有り得た人と人との知り合い方。それは、国語の授業としてはとっても重要な実践だったんじゃないかなって、今の話聞いてて思いました。先生としても楽しかったでしょ?それ。

畠中先生)楽しかったです。

一同)(笑)

小森理事長)羨ましいな~。その場にいたかったな~(笑)

畠中先生)なので、読んでて「これ私一人じゃ勿体無い、これは皆で読みたい」と思いました。

「自己対象化」するということ
司会(北山)小森先生、橋本先生のときも畠中先生のときも『自己対象化』という言葉を使っていらっしゃいますが、『ことばを育てる』というときの、自己を対象化するということの意味、どの年齢においてもそれがとても大事なんだろうと思うんですけど、もう少し説明をしていただけるでしょうか。(笑)

小森理事長)それは、いきなり哲学の分野に踏み込むことになってしまうわけですが(笑)、要するに、人間の意識って、自分の体が置かれてる状況の中で、一つ一つやっていかなきゃいけないわけですよね。そのときには、例えば今、北山先生からこの問いを受けて、「そんなこと言われたって困るじゃないかよ。そんなの考えてないし。口走っちゃっただけだよ。何でそういう難しいこと聞くんだよ」

一同)(笑)

小森理事長)とかって思ってる私は『即時』なんですよ。それが、今そう聞かれて追い詰められちゃって、「えぇ?そこでそれを聞くか?!」みたいなね。だけど、今日企画された対談の中でこういう話が出て、「じゃあここで今私が何を話すことが求められているのだろうか?この座談会では」という風に、イラっと来た気持ちを、

一同)(笑)

小森理事長)落ちつけて(笑)、ここで「小森陽一、そういう役割をちゃんと果たさなきゃいけないんだぞ」っていうところに立てるかどうかが『対峙』なんですよ。人間は基本的に即時的に生きてるわけですね。自分中心に。だから一人であれば「早くビール飲みたい」「家帰ってビール飲もう」というふうになるでしょ?だけど、とりあえずここで、残りの55分間、どういう役割を果たさなきゃいけないか、社会的にと言うと大袈裟だけど(笑)、「今この4人で座談会をしてる中で自分に求められていることは何だろう?そして、先ほどの『即時』と『対峙』という哲学的なことを言ってしまったことに対する、今の北山先生の突っ込みはどういう意図があるのだろう?」、

一同)(笑)

小森理事長)その他を並べて考えてみて、「じゃあ、お前何言う?」っていう風に考えていくのが『対峙』なんですよ。

司会(北山)なるほど。すごくよくわかりました。

橋本先生)(笑)

畠中先生)それで言うと、この日記を読んでコメントしてくれる人たちのことばは、その1.5ぐらいだったのかなって、今聞いて思いましたね。

小森理事長)そうそうそう。明らかに、日記をつけた瞬間に、その子自身、対峙化してるわけでしょ?だけど、それを読まれることで2段階目の対峙化が起きてる。そして、友人たちの感想が出てくることで、一気に4段階5段階の対峙化が出来て、つまり「自分って何?」っていうのがクラスの中で見事に分かり合える関係として社会化されたわけですよ。それはね、きっと「このクラスに来て良かったな」って思えるわけでしょ?そうすると、自分が所属してる社会集団の中で「自分の役割はこうだ」と。これはまさに、『即時』から『対峙』への、つまり人間の社会化のプロセスですよね。それが、この日記を読み合うことの中で、様々な形で、恐らく生徒たちの間で行われていったんだろうと思うのです。
「日記を読み合う授業を受けて、思い出してどうだった?」っていうのを、夏休み明けに聞いてみるのも面白いかも。更に対峙化が進んでいく気がする。そこは、国語っていう授業のすごく大事なところです。

畠中先生)いつも1学期にスピーチを3分でやってもらうんですけど、この年は6月からだったんで、10月にやりました。生徒はけっこうハードルが下がったというか、これで読み合ったり知り合ったり見合っていたので。例えばこの日記を読み合ったときに、「スケボーを毎日すごく楽しんでました」と、一応皆自宅待機中なので、「学校に苦情来ないですか?」とか(笑)、そんな質問もあったり、「そういうの得意なんですか?」とか、初めて会った人もいる中で、全然表情を動かさずに、「本当にそんな呑気な生活で羨ましいと思いました。うちは母と妹がいて、すごい緊張感で、自分が遊ぶなんて考えもしませんでした」というのもありました。コメントの中ではすごく異色だったんですが、きっと多分、そこに彼女の生活があったんだろうなっていうのは皆察しました。だからスケートボードを毎日やってたっていう子も、「ちょっとそういうのも考えないと、同じ高校生なのに、そんなに緊張して生活してる人もいて偉いですね。自分はちょっと呑気に過ごしちゃいました」とか返してたんですが、秋になって、別の子がスピーチをしてたときの感想に、(感想もお互い印刷して配り、読まれることを分かっていて)実はその顔色一つ変えずにいた子が、「自分の家は親に障害があってすごく大変だったので」と書きました。お話しした子も、「家族が聴覚障害で、音楽をやることについてなかなか理解してもらうのに時間がかかって」というのを感想に書いていたりします。そのときに繋がって、この段階ではもちろん語れなかったけれど、秋ぐらいになったら少し開いて、「話しても良いかな」と変化したんだなぁということがありましたね。

小森理事長)今の話は本当は知られたくないマイナスの家族の在り方でしょう?でも、そういうやり取りをきっかけに、クラスの中で共有するものとして言語化できたってことは、そのやり取りの中ですごい信頼関係が作られたが故の言語化ですよね。それで、恐らく、そう書いた子たちは、書くことによって救われてると思うのですよ。自分の中で抱え込んできてしまったことを、このクラスのみんなには言っていいんだなっていうね。クラスの中の、お互いにことばを交わしていく信頼関係が作り出された実践になったということなんですよね。それはすごく大きいことだと思う。

畠中先生)聞き手がすごいなと思いました。この日記を「いいよ」って言ってくれて、書いたものも魅力的だし、もちろん発表も話も面白いんだけど、聞いてもらい、コメントを最初にもらってドキドキして、感想を言ってもらったけど、どんなのが出てくるかなって、生徒のことを私も知らないでやっているので。でも、共通体験があるからなのか、即時の反応で「すごいなぁ」っていう感想と、その人と会えなかった生活に思いを馳せるっていうことが行き交う感想だったので、「あ、やって良かったな」と思いました。聞き手がすごかったですね。

小森先生)さっきの北山先生の質問、つまり即時と対峙っていう、自己の在り方に対する意識の違いなのですが、その二項対立の中に、ちゃんと即時から離れて対峙になれたときに、他者の思いとか、つまり自分じゃない他者の在りようが理解できたり、共感できたり、想像力を伸ばしたりすることができるわけですよね。
この三角関係が作られるかどうかっていうのが、社会的な生き物としての、人間の大事な生命線。そこをことばが担っているわけで、そこを教育するのが国語の授業なんですが、すごいじゃないですか。

司会(北山)すごいですね。

小森理事長)だってクラスが成長するんだもん。今の話聞くと。で、皆がそれを認め合ってる。

司会(北山)「ことばがそういう役割を担っている」という小森先生のことばが、私は今すごくストンと落ちました。自分でも、国語の授業やこのような発表などをやり、お互い響き合って面白いなっていうところはありましたが、そういう形で、きちんと自分自身でまとめたことがなかったので、恥ずかしながら。そういうことですね。なるほど。

小森理事長)だから、作文を書くプロセスの中で、自分をどう表現するのかで即時から対峙へ行って、それを読んでもらった周りの友達の感想を聞くことによって、更に人からどう見られるのかという、即時から出発した対峙じゃなく、他者から出発した対峙になり、それは自分を見直すことになる。それが、ことばを操る生き物としての、社会的な人間としての在り方なんですが、それが、実に見事に時間的な経緯を含めて、授業の中で実現してるなと私は思ったわけです。

司会(北山)今のおことばで、全てよく分かりました。お二人の実践の価値が、「あ、そこなんだな」と。小学校1年生の子どもたち自身が、作って聞いてもらうのも嬉しいし、次は友達のを「何て言うのかな?」と思って聞こうとしてるというのも楽しい。そういう子どもたちを見ている先生が、すごくわくわくしながら、その子どもたちを見つめているというのも素晴らしいことだと思います。それは、高校生でも同じですよね。思春期の時期に、自分のことを、と思うけれど、やってみたら聞いてもらいたいし、聞きたいし、それに対して何か言いたい、というのがあり、先生は、内輪だけじゃもったいないからと皆にも開いてもらっています。国語の授業として、『ことばを育てる』ことって、こういう意味があるんだというのを本当に勉強させてもらいました。

畠中先生)ニュースなど外から来ることば、晒されていることばが強いですよね。高校生は絶えずインスタやネットニュースを見ていたり、自分の体をくぐってないことばにいっぱい晒されています。

小森理事長)ああ、そうか。高校生はSNSの世界ですね。

畠中先生)そうですね。それが、学校に来て友達と話して、「それはちょっと違うなぁ」とか、「あの子はあんなふうに言ってたけど、ちょっとあれは無いよね」とか言われると、「あ、無いのか」となる。家族の会話はずいぶん日記の中から見えてきて、家族とそれをどのように話すかということも、それはそれで大事な時間なんだと思います。でもやっぱり晒されているものが強くて、一旦それを言ってみたけど、他の人から言われて、「やっぱりそんな在り方っておかしいのかな?」、「そんなふうに思わなくてもいいのかな?」と緩めてもらえる。日常的にもですが、コロナ禍では特に晒されていることばがきつい、厳しい、辛いなと思います。
でも、(小学校)1年生だってそうですよね。紋切り型のことばや決まったフレーズなどいっぱい世の中に溢れていて、それを操作して形にする、それらしく見せるということから入ると、字を美しく書くとかというようなこととかあると思います。「茶匠になりたい!」みたいな(笑)

一同)(笑)

司会(北山)ですよね。「『車掌さん』と言い間違ったかな?』って思ったら。

橋本先生)私も、「千利休」って言われて(笑)

畠中先生)そう。「えぇ~?!」って。

橋本先生)そういう意味では、国語だから、お話をみんなで読むのも、そのお話の世界をもちろん楽しんだり、普段読まないような本に出会ったりというところにも意味があると思いますが、話を柱にしながら、どうそれを読んだかというやり取りの中にこそ、意味があるんだろうなっていうのを、皆さんの話を聞きながら、改めて思いました。読みがお互いのやり取りの中で広がっていくのも大事にしたいし、でもやり取りする中で、発言した人のその子らしさの、「あの子ってそういうふうに読むんだ」とか。知識がどうとかじゃなく、その人の想いが見えるところを楽しめるような授業を、そこに「面白い」っていうのを感じられる授業を作りたいなぁということを聞いていて思いました。

                                        <つづく>






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